んもう、そういうことをうっかり言うから、痛くもない腹を探られるというか、逆に勘ぐられるんじゃないか、と思ったのだが、考えてみたら今後大変になるぞというのは、今まで自民党議員に対してはさほど苦労なく予算が通っていた、とも取れるので、語るに落ちているとも言える。なにより国民が選んでしまった人たちが治水に詳しくないと言うことは、国民の大多数が治水に関心がないということであって、それって今までぜんぜん「説明」が足りてないってことじゃないか、という結論以外にはどこにも到達しない。
わたしなどに偉そうに言われて迷惑かもしれないが、治水事業というのは、がんばってゼロになる仕事である。やらなければ大雨がくるたびに水びたし。治水をやってようやく、いつでも乾いた状態(ゼロ)を維持できる。そういう仕事を正当に評価するのって難しい。人は平時(ゼロ)にあって、災害時(マイナス)を忘れてしまうからだ。あのダムが、あの水門があったから今回の台風でも水が出なかった、とずっと思い続けることは難しいのだ。
治水の仕事をされているみなさんが大きなプライドを持って仕事をされていることについては、常に敬服しているし、あこがれすら感じる。日夜がんばって水を制御しているんだぞ、みたいなことは声高に喧伝するものではない、というようなダンディズムというか、男は黙って仕事する、みたいな価値観があるのではと思うが、その結果として国民の理解不足という構造を築いてしまったのであれば、ダンディなままでいいとは思えない。治水はやらんでいい、とまでは行かないにしても、無駄みたいだからとにかく何でも減らす、みたいな別次元の論理で予算カットされるようになる。というか、すでにそうなりかけているではないか。
水門サイトを11年前に立ち上げたときに書いた、自分のスタンスというのをひさしぶりに思い返してみた。
撮影に際して、水門の技術的あるいは社会的な価値の判断はしないことにしています。すべての水門の存在を無条件で支持するつもりはありませんが、河川行政一般や特定の水門の存在に対して、直接に批判意見を述べ立てるのはおそらく写真家の仕事ではないでしょう(たまには文句言うかもしれませんが)。冷静な思考のための検討材料となるような画像を収集し、広く提示するだけです。あなたがこのページを見て水門に関心を持って、直接あなた自身の目で水門を見に出かけてくれれば、それでいいのです。
何だよ、実はおまえもダンディ的じゃんとか言われそうだ。当時は、とにかくまず、何か文句言うなら現場を見てからにしな、ということが言いたかったらしい。まあそれさておき、これを書いた11年前に比べて、河川構造物について、あるいは治水についての世の関心は多少なりとも変化したのだろうかというと、これがよくわからない。そういうものが好きなマニアがいるらしいぞ、ということが知られただけかもしれない。
政権が交代していろいろと風通しがよくなることもあるだろうし、効率の低下で山ほど問題が出てくることも予想される。それ自体は悪いことじゃない。変化が刺激となっていろいろなことが活性化することは歓迎されるべき事態だろう。しかし心配なのは、治水の知識がないけどやたらと声高に騒ぎ立てるのが好きな人たちが、尻馬に乗って再びピントのずれたキャンペーンを起こさないだろうか、ということだ。そういやこのことについても11年前に書いたっけ。
まとめます。治水事業は、もっと広く深く知らせる必要があると思う。だからといって間違っても新聞の一面広告なんて大時代なことはやらないでね。今やったら逆効果どころの騒ぎではないし、だいたい新聞読んでない人も多くなってるし。
これまで一般向けの情報公開・説明コンテンツは子供向けのものが主体であったけど、大人向けも重視することは考えてほしい。そのことに関して言うと、マニアをあなどったらダメですよ。マニアは単なる特殊な嗜好の人たちではなく、価値生成装置、あるいは価値変換装置ともいうべき存在と考えるといいと思う。これってマニアの純粋性を利用せよみたいな、ちょっといやな書き方だけど、あえて書いた。マニアの側も、もちろん単に純粋であるだけではいかんと思う。口に出すにせよ出さないにせよ、マニア(鑑賞者)も立場を自覚し、各自の戦略が必要だと思っている。
本当に必要かどうか深いレベルで理解している人が、一人でも増えることこそが重要だよね。